霖雨の森にて、

独り言を、

創作活動

私が初めて本気で絵を描いた時、それは仲のいい友達に今見ている美しい景色を見せてあげたいと強く感じた時だった。

 

私がいつもカラオケで歌を歌う時は、その歌の魅力を一緒にカラオケに来ている人に伝えたくて歌っていた。

 

私が写真を撮る時は、友達にこの綺麗な空を見せてあげたくて撮っていた。

 

私が創作活動と名のつくものをする原動力は、誰かにこの美しさ素晴らしさ自分が感動したそのものの良さを伝えたい時だ。

その心を忘れてはならないと常々思う。

 

インターネットは競い合う世界で、反応の数が明確にわかるからこそモチベーションに繋がることもあるが、根底にあるのはそんな反応よりも自分の感動が上手く伝えられているかなのかもしれない。

 

最近上手く写真が撮れないのは、美しいものをみて「美しい」と感じる余裕が無いからなのかもしれない。

推しのライブ

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

 

 

それは、好きなアーティストのライブに行った時。

3度目のライブだっただろうか。

1度目、2度目も凄く感動した。とても楽しませてもらったし、とても素晴らしいライブだった。

ただ、その3度目のライブは今までのふたつと比べて自分の席がステージに近かった。

今までは少し遠くてステージの横にある大きなモニターに移る彼らを見ていたので、本当に彼らに会いに行ったような気がしていなかったのかもしれない。

3度目のそのライブの時は、とても近く、出てきた瞬間、本当に彼らのライブに来てしまったんだ。と衝撃を受けた。

その後ハイタッチ会や握手会にも参加したが彼らを間近で見る度に動揺して混乱してしまう。

推しという存在はやはりすごい。

 

 

 

余談だが、

私はライブに行くたびに感動すると同時に絶対私もこんなライブをやってやるという野望に滾って帰る。

誰かの活動は創作活動のモチベーションをとても沸騰させてくれる。

 

コロナが落ち着いたらまたライブに行きたい。

夢と現実

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」

 

私にとってのインターネットは「夢と現実の狭間」というイメージだ。

 

私はインターネットのおかげで学生時代の辛い時代を乗り切り、むしろ生きる希望を貰い、生きる意味を得た。

私にとって将来こういうことをしたいという明確な「夢」を与えてもらった場所だ。

さらにその「夢」のおかげで、インターネット上で活動することが増え、それが「現実」に良い意味でも悪い意味でも影響してきている。

「夢」の世界だけではなくちゃんと「現実」にも干渉するそんな「狭間」のイメージが強い。

 

 

私は同世代の中だとインターネットに初めて触れた時期は少し遅めの方だと思うが、インターネットの奥深くまで手を伸ばしているだろうと思う時がある。

同世代の人達は基本的にはYouTubeInstagramTwitterなどを使い、好きな動画や歌を聴いたり、SNSで友人と会話をしているが、その範囲では気づかないインターネットの恐ろしさを周りと比べてみてきたと勝手に思っている。

それこそ「夢」のようになんでも出来るインターネット世界で何でもしてしまったから「現実」に悪い影響を及ぼしてしまった人の話をたくさん調べて読んできた。

実際に好きだった動画配信者が「現実」での行いにより配信活動を辞めなければならない状態になっているのをリアルタイムで見ていたりした。

 

インターネットの恐怖もしっかりわかっているつもりだ。

 

しかしこんな私でももっとネットリテラシーのある同居人からはインターネットの使い方についての注意を受けることがある。

 

インターネットはどんなことでも出来る。

好きな芸能人に直接発言ができたり、過激な発言を色んな人に見てもらえたり、自己防衛のために攻撃的になったり、顔も名前も分からないからこそ強気になったり。

でも「夢と現実の狭間」にあるインターネットはどちらの性質もあるからこそ「現実のルール」もちゃんと守らなければならない。

人を不快にさせる行動や発言はしてはいけないし、過激すぎることも慎まなければないし、自己防衛と言って何もしてない人を殴ってはいけないし、知らない人だからって罵倒していい訳では無い。

家の中に居てもインターネットという「外の世界」に出ているのだから、家の外で出来る行動をしなければならない。

インターネット世界に外出しているのだと思わなければならないのかなと思う。

 

 

 

まとめになるが、

私にとってのインターネットは現実の自分を少し良く見せてくれる夢のような場所だ。

なんでも出来るような気がするけれど、現実の自分の出来ることが増えなければ夢の中でもできることが増えなくて。

なんでも出来るという自由度の高いインターネットだからこそ、夢を乗りこなすためにはたくさんの想像力と知識と考え続ける力が必要な場所で。そのためには現実で色んなことを考えなければならなくて。

とにかくインターネットは「夢でもあり現実でもある」場所だから。

 

行動や発言にはくれぐれにも気をつけていかなければならない。

リヴリーアイランド

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リヴリーアイランドというゲームをはじめた。

私はこういう育成ゲームが好きなのだが、今までスマホゲームでピンと来るものがなく、Twitterで見かけたこのゲームはとても面白そうだと思い始めてみた。

 

私はリヴリーに対する前情報はひとつもないが、それでもちゃんと面白く、これから新しいキャラクターや新しいきせかえ、ガチャが出るのがとても楽しみだなと思うゲームだった。

 

もう少し続けてみようと思う。

音楽と私の関係

 

最近久しぶりにイヤホンを購入し、音楽を聴いて生活するようになった。

イヤホンをつけて生活するようになって気づいたことをまとめようと思う。

 

まず、音楽をつけている時、異様に自己分析や考え事をする。

イヤホンをつけていない時はただ外を見てぼんやりしていたり、スマホを眺めていることが多いのだが、音楽を聴くと脳が刺激されているのか考え事がすごく捗る。

次に、音楽を聴いている間なんか強くなった気がしている。

今日、情報リテラシーの授業でインターネット上では自分が強くなった気がして攻撃的になる人の話をしていたが、私的には音楽を聴いている時に自分が強くなっていると感じているようだ。

なんだか大層な偉そうな日記も書くしツイート数も増える。

音楽を聴いていない私は何度もツイートしようとしてこんなことツイートしてもなぁと諦めてしまうことが多いのに。

 

そんなこんなで音楽を聴いている方が創作活動には打ち込みやすいようだ。

実際創作活動をする際にお酒を飲んだりして脳を刺激してからやる人がいるが、私の場合は音楽を聴くことで触発されるようだ。

しかし、これには1つ欠点がある。

音楽を作れないのだ。

 

私が今まで作曲をする際に現れていた壁というのは、一節作って「いやこれそんなにいい感じじゃない気がする……」となって辞めてしまうところだ。

途中で自信をなくしてしまうのだ。

しかし小説を書く際は音楽を聴きながらやるので、自信がなくなっても「知らね〜〜〜〜〜書いてやるぜ〜〜〜〜〜〜」の気持ちで書ける。強いから。

それが作曲をする時に出来ない。

絶対聴きながら作ったら引っ張られる。

困った。

今週のお題で小説①

 

私には行きつけのうどん屋さんがある。

会社の傍にある上、裏道のさらに奥にあるためほかの店と違い昼時でも空いていた。

それまでは空いていそうな店を探し随分遠くまで歩かなければならなかったので、直ぐにそのうどん屋へ通いつめるようになった。

何度か通って色んなメニューを試して見たが、どれも味が良い。

うどんはもちろん、蕎麦やカツ丼、定食に付いてくる漬物までどれをとっても絶品だった。

さらにメニューが豊富でこれは当分飽きずに通えるぞと安心できる品揃えだった。

 

そんな中でも毎回頼んでしまうのがいなり寿司だ。

ここのいなり寿司は本当に美味しくて、初めて来た時に何となくで頼んで以来、来る度に絶対頼んでしまう。

 

ふわふわなのにしっかりと噛みごたえのあるいなりの皮には少し甘めの優しいタレがたっぷり染み込んでいて、噛む度にじゅわぁと溢れ出す。酢飯もお米一つ一つがしっかりしていて、タレと甘みとすじょっぱさが絡み合いとてもよいハーモニーを生んでいた。その中に混じるゴマの香りがまた食欲をそそり、あっという間にひとつ平らげてしまうのだ。

 

食後のデザートのように大事に取っておいたいなり寿司をゆっくりと堪能して、その幸せが残ったまま会社に戻り仕事をするのが最近の日課になっている。

 

そんないなり寿司のことを思い出し、程よくお腹が減った今日もそのお店へ足を運んでいる。

相変わらず誰もいない通りにいつも通り驚く。

道が1本違うだけでこんなに静かになるものかと何度目か分からない疑問を浮かべ、通りを歩く。

大きなトラックが誰もいない通りを往来しているのを横目に、お店の扉を勢いよく開ける。

ガラガラガラ。少し立て付けが悪く大きな音を立てながら扉が開く。

食欲を刺激される香りに迎えられながら、いつも通り人の全然いない店内を見渡す。

今日のお客は二人。カウンター席と二人がけの机に一人ずつ座っている。

見渡したものの私が座るのはいつも通りカウンター横の店主さんから近いが死角になる壁際の四人席だ。

カウンター席に座るのはいつも常連さんで座りづらいが、早く料理が出てきて欲しいのでカウンターに一番近いこの席に座る。

 

どっしり腰をかけて、隣の席にカバンを置き、今日は何を食べようかと見慣れたメニューを手に取る。

 

「そういや、おやっさん。せがれの調子はどうなんじゃ」

カウンターに座っていたおじさんが嗄れた声で店主さんに話しかける。

店主さんは寡黙な人なので、声には出さずに料理をしながら何かリアクションを示していたようだ。

「へぇそぉかい」というとまたおじさんは爪楊枝をくわえ始めた。

「この店はどぉすんだい。おやっさんの腕、もうどうしようもないんでしょぉ」

なんだか腑抜けた喋り方をするおじさんだなぁ。会話の途中だが、注文が決まったので店主さんに注文を伝えに行く。

「すみません。カレーうどんといなり寿司とミニ天丼ひとつずつで。」

伝えながら店主さんの腕をちらりと見る。

火傷を防止するための布が巻かれていてどうなっているのかはよくみえなかった。

「おじさん。お勘定」

私が席に戻る時に、入れ違いで二人掛けの机の座っていたサラリーマン風のおじさんがお金を払って出ていった。

その後しばし天ぷらの揚がる音と店主さんが何かを作る音だけが響いていた。

目の前を大きなトラックが通って店ががたがたと揺れた。

「店はまだ畳まぬ」

突然店主さんがポツリと言った。

「じゃあ移動でもするんかい。この通りも来月には人で溢れかえるぞ」

カウンターに座っていたおじさんがさっきよりも深刻そうな声で語った。

来月。店の外を見ると、斜め向かいに新しいショッピングモールができると大々的な看板とのぼりがあがっていた。

「おまち」

いつの間にか目の前に店主さんが来ていて、机の上にカレーうどんとミニ天丼といなり寿司を並べていた。

いつもならそのままそそくさとカウンターの中に戻ってしまう店主さんが何故かこちらを見たままじっとしている。

「お前さん。いなり、好きか」

ボソリと低い声で問いかけてきた。

「は、はい。この店のいなり寿司が好きです」

「ふん」

鼻をひとつ鳴らすと、いつものようにそそくさと帰っていってしまう。

「店はまだ畳まぬ」

そう、もう一度、さっきよりもしっかりとした声で店主さんは言った。

「そうかい」

カウンターのおじさんは腑抜けた声で答えた。

カレーうどんもミニ天丼もすごく美味しくて、最後に食べたいなり寿司もやっぱり美味しかった。

 

 

戯言14.

 

自分のブログのカテゴリー欄を開く度思うのだが、戯言と日常は別のものなのだろうか。

 

多分この日常は日記をかっこよく言っただけのものだと思われる。

戯言だって上手く考えがまとまらなかったことをかっこよく行っただけなのだから。

 

私は高校二年生の時からスマホのアプリで日記を書いている。

別に毎日書いている訳では無いが、感情が高ぶった時や不満を感じた時などに書き溜めている。

この『戯言』に書くことはタイトルをつけて色んな人に見てもらいたいと思うほどでもない上手くまとまらなかった考えなどを書いていく場所なのだが、今の日記アプリとほとんど同じ使い方をしている。

インターネットの海に入れられないような物は流石に日記に書いているので、この戯言と自分でつけている日記はさほど差はない。

 

 

ではこのブログにおける『日常』というカテゴリーには一体何を書いているのか。

 

自分でも何を入れてるかなんて忘れてしまったので見直してみた。

 

短い写真と文がパラッとカテゴライズされていた。

 

日記ってゆうかTwitterじゃねぇか!!