霖雨の森にて、

独り言を、

自分をミせる、ということ

 

 

今日、時間があったので中学生の終わりごろに書いていたアメブロを読み返してみた

恐ろしく内容がなく、軽率で、短かった

ブログとはこんなものでいいのかもしれないと思いつつ少し考えてみた

 

これは自分をみせるのがうまくなったのかもしれない

 

私は学生の時はよく、周りの友達が自分のことをどこまで知っているのだろうと気にしていた

周りの話を聞くことが多く、自分の話をあまりしてない気がしたのだ

 

あのブログは酷かった

自分の好きなことだけをぶっきらぼうに書いていた

そんな不器用はところから自分の好きな物を勧めることの苦手さを垣間見た

 

自分の好きなことを勧められるというのは自己アピールができるとイコールだと思う

すなわち両方とも自分をみせることだと思う

 

わずか数年しか経っていないが、ブログの方は少しまともになった気がする

普通が良いとは言わないが、少しはみてもらえるものになったのかなと自信過剰になってみる

 

 

 

アメブロを探しに行ったとき副産物としてよく利用していた掲示板サイトが先月閉鎖されたことを知った

インターネットにも永遠はない

 

 

人を頼る、ということの

 

 

人を頼る、これはお互いの信頼あってのものだ

昨日、頼ってみようと言ったそばから、私はまた立ち止まっている

 

例えば、自分の荷物が重いからって近くにいるおばあさんに持ってもらうのかということになる

そう、結局頼る相手に余裕がなければ頼るに頼れない

おばあさんには筋力的にも余裕がなくきっと自分の持ち物を持つだけで精一杯だろう

そこにやれ私が重い荷物を持っていて大変だから持っていけなぞと言えばそれはいくら信頼関係が出来上がっていようがお構い無しに無礼にあたる

仕方なく抱え込むものは抱え込むしかない

それはまるで学期末の小学生の帰り道のように

大荷物なのは私だけではなく皆同じこと

大変で険しい道だが、誰も頼るあてがないのなら一人で歩いて帰るしかないのだ

 

 

それと同じことで頼れること頼れないこと

やらなきゃいけないけど自分にしかできないこと、誰かができること

ちゃんと分けていかなきゃいけない

何でもかんでも頼ろうとしてもダメだし

何でもかんでもやろうとしたら私がダメになる

そういうことを肝に銘じていかなければならない

 

死に急ぐことは無い

だけれど自分にしかできないことが沢山ある

学校に通うのは自分だし勉強するのも自分

アルバイトに行って稼ぐのも自分だし

なら家事や家の事、お金の管理、買い出し

二人で分担できることを少しずつ分担していけばいいのではないか

 

人と暮らすというのは難しいが

一人で暮らすのよりかは幾分かマシだと思う

 

その共に暮らす人のことが好きならば、になるが

人を頼る、ということ

 

私はものによって、人を頼るのが苦手だ

人を頼るというのは様々な種類があると思う

 

  • 分からないところを誰かに尋ねる
  • できないことを誰かに任せる
  • 誰かと共に何かを成し遂げる
  • 自分の仕事を誰かに任せる

 

他にももっと思いつく人もいるだろう

自分の手の届かないところを信頼する誰かに任せるようなことを頼ることだと思っている

 

私は、きくことだけは得意だ

自分の納得いかないところ知らないことをどんどんきく

また自分が出来ること出来ないことを把握しているので、出来ないことを人に任せるのも得意だ

 

ただ、私が苦手とするのは自分が出来ることを誰かに頼ることだ

 

自分の能力としての限界は把握しているのだが、自分のキャパシティの限界を把握していない

明らかに仕事を抱えすぎてしまったり、上手く休むことが出来なかったり、人の仕事まで引き受けてしまったりするところがある

自分の趣味もしたいからとずっと働き詰めになっていたりすることもある

これは逆を返せば頑張れる人だということだと思うのだが、

同居人にこんなことを言われた

 

頼れる時は頼っていい

家事で大変ならいつでも言ってくれればやるから

 

私は家事を全てやろうとしていた

同居人が社会人で私がまだ学生だと言うのもあり、自分がしなければならないのではないかと考えていたところもあった

毎日クタクタになって帰ってくるのを見ていると私が家事をして負担を減らしてあげたいと感じる

しかし、実際は私にも学業があり、アルバイトも検討していて、その中で家事をするのだ

こなしてる人もいるだろうからそんなに珍しいものでもないのだろうが、まだ4月、そんな環境になれていない

一気に全てやろうとしなくてもいいと言われた

 

確かに家事というのは習慣化した途端少し楽になるのだろう

始めは気持ちが乗らなければあまりやりたくないが、習慣化すれば気乗りしようがしまいがやらなきゃ気が済まなくなる

そこまで慣れてから全てをやろうという気持ちになればいいのかもしれないと思った

 

 

人を頼る

これは大事だ

人間ひとりじゃ生きていけないと綺麗事のようによく言うが

本当にそう

一人で全てこなしているように見える人でも何かをどこかを頼っているのだと思う

 

自分は一人で生きている、と考える人は一度普段の生活を振り返るといい

どこかで誰かを頼っているから

頼ることは人との繋がり

その人を信頼しているということになるのだから

スーパーのお惣菜に毒が入っていないというのも信頼

外を歩いていて誰にも撃たれないというのも信頼

信頼は思ったよりすぐそばにあるような気がする

 

それに気づければ色んなことを頼れるようになるのかな

頼るって本当に大事

 

そんなに大きなロボットを1人で動かそうとしなくていいんだ

 

戯言2.

 

 

 

私は小説を読む時脳内で映像化をして読むタイプなのだが、これは漫画やTwitterを読む時も同じで、脳内でその人っぽい声で台詞を再生してしまう癖がある

 

例えば、漫画を読んでいる時にこのキャラクターはこんな声だろうと思って読んでいるから、アニメを見た時になにか違和感を感じてしまう等の支障がきたすことがある

そのようなギャップというのは少なからず誰にでもあることなのかなと思っている

 

他にも、小説や漫画を読んだだけなのに映像化作品を見たと勘違いしていたりすることもある

 

 

これによる支障は他にも、

小説を書くとなった時に、情景の映像は思い浮かぶのだが、それを言葉に落とし込むことが出来なくて困るという悩みに繋がる

小説の言葉を拾ってそれを映像化してしまっているが故に、語彙が増えている訳ではなく、言わばCDを読み込むだけの機械になってしまっているのだ

自分の中でその言葉を使えないのでは意味が無い

ちゃんと言葉を言葉として読み込めばよかったと少し反省した

 

 

 

私は小学生の頃、ハリーポッターの小説にハマっていた

何度も読み返して、自分の中の理解を深めようとした

十何年経った去年、映画を全て見返してみた

ハリーポッターの映画を全てしっかり見たのはこれが初めてだった

あの頃の記憶が蘇ると共に、こんなに壮大な話壮大な描写をどう文字に落とし込んでいたのだとも思った

ハリーポッターはしっかり人間ドラマも描かれている

その心理描写であったりだとかそれと共に魔法を使っての戦闘シーンの躍動感、未知なる生物との関わり、文字で表現するには過酷すぎる内容が詰め込まれている

しかもさらに言えば映画のハリーポッターは小説のハリーポッターを短くしたものだ

沢山のシーンがちょっとずつカットされている

なんだかこのブログを書いていたらハリーポッター小説版を読み返したくなってきた

小学生はあんな素晴らしい作品の本を無料で読み放題なのだ

図書室のなんと素晴らしいこと

 

 

 

社会人

 

 

人との接し方とは、経験によって培われるものだと思う

 

いくら国語の授業で敬語の使い方や種類を学んでいても、使ってこなければ使いこなすことは出来ない

 

私は最近自分の未熟さを感じる

 

 

高校の時からアルバイトをしていた私だが

接客業を経験し、すこし人と接する時の話し方や言葉遣いは板に付いてきたのかなと思っていた

しかしアルバイトの欠点としては、メッセージでのやり取りが基本的にないことなのだ

これは大学生になり気がついた

教授に分からないところを質問したくてメールボックスを開いたものの、どんな文面でどんな言葉遣いで送ればいいのかを悩んでしまった

 

私はアルバイトをしたことで、周りより少し社会に近いと勝手に考えていたが完全に井の中の蛙だった

 

同居している人は社会人になりたてなのだが、その人は私から見てすごくちゃんとしていると思う

このちゃんとしているを表す言葉が見つからないのだが、ちゃんとしていると思う

話を聞けば、学生時代の部活動ではいつも部長だったり、先輩とも仲が良かったり、大学でも部活内の重役を務めたりしていた

学生時代まともに重役に着いたことの無い私はそういう所で差がつくのだと気がついた

 

思い返せば部活の部長は割と仕事が多いように思う

部員をまとめ、仕切り、先生の指示も聞きと沢山のやることがある

やることが沢山あるということはそれだけ経験が増えるということだ

それを何度も学生時代の間に体験したら、立派な大人に仕上がるのも頷ける

 

しかし理論的に分かろうとも、本当に行動に移せるとは限らないだろう

 

もしこのブログを中学の時の私にみせ、こういうことだから重役に率先して着くといいと伝えても、なかなかそうもいかない

重役というのは、部活内で色々な面を評価されて初めてなれるものだと思う

ではその評価の得方というのは、今の私にすら分からない

きっとその同居人を見ていればわかるのかもしれないが、それにしても彼は出来すぎているように感じる

圧倒的にこの人なら信頼できると感じてしまう何かを持っている

まあ私の主観的なものを入ってくるのだが

 

そういえば、以前勤めていたバイトで生徒会長をしたことがあると仰っていた方がいた

その人は私より後に入ってきたのだが、1ヶ月ほどで信頼を獲得し、社員さんに私も任されたことないような仕事を色々任されていた

その人の方がずっと年上で社会経験もあるからというのを差し引いても、その輪に馴染み、信頼を獲得するまでのスピードが凄く早かった

 

 

私もそういう人に少しでも近づきたい

社会に出るのが不安で仕方ない

 

戯言⒈

今日、読んだ記事の言葉をふと思い出した

 

『愛による幸せを感じている時、麻薬を使っている時によく似た状態になる』

 

確かに恋愛というのは怖いもので、それを摂取しなければ苦しくなり不安になりストレスを感じ、それを摂取してる間は幸せに満ち溢れ何も考えられなくなる

 

 

 

また似たような記事で

今度は『音楽』を聴いている時も同じような状態になるのだというものも見た

 

 

私はどちらにもハマってしまっているため、

どちらの論述も痛いほど首を縦に振ってしまう

音楽をイヤホンで聴いていなきゃ外を歩けないし、直ぐに片想いをして誰かに恋い焦がれていなければ何にもモチベーションが上がらない

そんな高校生活を過ごしてきた私からしたら、そうに決まっているあの依存性はそのレベルだ!と周りを気にせず大声を上げたいほどのデータだ

(いやしかし、あまり大声を出すと音楽を規制されたり、恋愛を制限されたりしそうだからやめておく)

 

 

恋愛と音楽に関して、なんにも関係無い私の小話をする

 

私は詩や小説を書くのだが、最初の頃恋愛をモチーフとしたものばかりを書いていた

しかも片想いのものばかりだ

 

前述の通り私は片想いばかりをした学生時代だったからそれを作品の中でも投影してしまい、そのような作品ばかりになってしまったのだが、片想いではなく両想いになった今、今度は恋愛をモチーフとした作品を書かなくなってしまった

というか書けないような気がしているのだ

 

片想いとは非常に盲目的で幻想的、信仰的だ

勝手に膨れ上がる相手への気持ちは伝えるすべもなくただ自分の中に溜まっていく

まるまる太ったその人への想いは少しつつかれただけで揺れ動き、傷つき、新たな妄想へと繋がっていってしまう

この状態での生活は困難極まりなく、ちょっとした事でコンディションが悪くなる

モチベーションが変動する

その安定からかけはなれた状況で少しでもその想いを他のことへ逃がすために、空気を抜くために詩や小説などの創作に使っていたのだ

 

 

そんな不安定な学生時代もすぎ

安定的に大切な人へ想いを伝え受け取れるようになった今

恋愛をモチーフとした詩を何度か書いた

 

 

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例えばこれ

今年の一月に書いたもので、学生が先生に片想いをしているようなものを書いている

 

他の人たちがどう見るかは置いておいて

私がほかの私の詩と比べると

びっっっっっくりするほどつまらないのだ

言葉選びから、語感、その内容まで

なんだかのっぺりしていて、どこにでもあるような、でもなにか語感の悪い

他の詩と比べ、生き生きと書いた雰囲気が伝わってこないのだ

 

 

そう、私にはもう片想いの感情を描くことが出来なくなってしまった

それはまるで薬物を使って作曲していた人が薬物を辞めてから作った曲の売上が伸びないとでも言うように

そのモノに依存している時にしか書けないものがあるのだ

 

 

かと言ってこれは悪いことでもない

むしろ元は片想いしか書けなかった私が、初めて両想いを経験して両想いが書けるようになったのだ

これを進化と言わずなんと言おう

 

 

などと宣ってみた

ブログについて

 

 

私は小説を書く

小説では数字を揃えたり言葉の雰囲気を揃えたり

まあルールが沢山ある

そして思いつくままに書いていてはいけない

 

従来、私は掲示板にて独り言を呟くスレッドを立て、独り言をレスしまくっていた

一日に1000ものレスをしてしまうほどには

思いつくままに打ち込み投稿を繰り返していた

 

あの時は自由だった

Twitterを始め、同じように自由に投稿しようとした

しかし、あの青い鳥は鳥籠に囚われている

フォローフォロワーなどのせいで、見えない紐に縛られてしまった

気にし症の私は、フォロワーのタイムラインを荒らしてしまうのでは無いか、この内容は誰かを不快にさせてしまうのではないか、誰かが実は見ているのではないか……と不安でツイートボタンを押せなくなってしまった

 

 

日記も書いていたが味気ない

誰も見ない閉塞空間で発言することは何故か何も思いつかない

きっと誰も見ていない けど 誰かが見るかもしれない

という程よい緊張感が私の筆を進めているのだろう

 

 

ブログとしては三本目だがこのブログという文化はまさにそれに当てはまっているのだ

きっと誰も見ていない

けれど、

誰かが見るとその見たという記録は貰える

誰かがきっと見てくれている

しかし、無理やり見せられている訳ではなく、自分で見に来たのだ

不快に思おうがどうしようもない

私は悪くないのだ

 

 

今手の中にあの時とおなじ、しっくりと馴染んだ感覚がある

 

いつ飽きてしまうかは分からないが